真友 小原隆一氏が逝ってしまった。
戦後まもなく、横浜市内には焼け野原が残っていた昭和21年の春、横浜南太田のY校に入学して以来半世紀以上におよぶ交友であった。
そのころ、県内唯一のラグビー部であったY校ラグビー部は昭和22年関東甲信越の予選を勝ち抜き第2回石川国体、第27回全国大会に出場を果たした。
我々がラグビー部に入部したのはその後であったが、その伝統を継ぐべく石原先生の情熱あふるるご指導をうけ、彼は俊足で当たりの強いCTBとしてチームの中心となった。
明治大学に進学し始めはBKであったが、同期の宮井選手等俊足選手が多士済々であったので自ら長身を生かすべくFWへの転向を志望し2年より頭角をあらわしLO、NO8として関東大学の数々の試合に出場し3地域対抗の関東代表になった。
特に昭和31年日本代表として、豪州学生選抜との試合の出場にて神奈川県出身のラガーとしてキャップ受領の第一号者となった。
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明大を卒業し横浜製糖に入社。会社のチームと全神奈川(主将 前会長 渡辺長治)のメンバーとなった。
会社が平沼高校の近隣にあった事より、現会長 斎藤幸雄氏が在学中の平沼高校の指導も手がけられた。
私も全神奈川のメンバーとしてゼブラクラブで再会し昭和34年東京国体、36年秋田国体と共に出場し、その後ゼブラクラブ神奈川不惑と共にラグビーを楽しんできた。
県協会としては渡辺前会長時代、副会長として協会運営にご尽力を頂いた。
ラグビーを離れてもY校同級生の月例の飲み会、ゴルフコンペと思い出は尽きない。
好漢すでに亡く、活躍の場であった三ツ沢球技場を臨む三ツ沢の地に静かにねむる。ああ悲しいかな。
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